分かりやすいヨガ哲学|馬車のたとえは、何を表しているの?
ヨガ哲学の講義で「ヨガとは何か」を学ぶとき、馬と馬車の話やイラストが登場することがあります。
たいてい、馬車を引く馬は4-5頭で、馬車にはふたりの人物が乗り、そのうちひとりは手綱を握る御者です。
これは、人の生き方・在り方を馬車でゆく旅路に例えた、インドではおなじみの表現です。
しかし、日本人にはなじみが薄く、ヨガ哲学の講義で初めて知る人がほとんどだと思います。
このヨガと馬車の関係について、もうちょっと詳しく知りたい!と思ったことはありませんか?
今日は、馬車のたとえがヨガとどのように関わっているのか、文献を確認しながら、分かりやすくお伝えします。
ヨガインストラクターさん、ヨガの学びを深めたい人におすすめの記事です。
馬車のたとえ話が登場するのは『カタ・ウパニシャッド』
この馬と馬車のたとえ(比喩)が登場するのは、紀元前4世紀頃成立の『カタ・ウパニシャッド』という聖典です。
ウパニシャッドとは、古代インドで記された哲学書の総称です。
ひとつの文献ではなく、多数存在し、古いものは紀元前8世紀頃、多くは紀元前5世紀以降の成立とされます。
ウパニシャッドのテーマは、梵我一如(ぼんがいちにょ)・輪廻転生(りんねてんせい)・解脱(げだつ)で、今に伝わるインド思想の源泉・ルーツとなる古典文献です。
『カタ・ウパニシャッド』におけるヨーガの定義
ヨガの歴史において、「ヨーガ」という言葉が、現代の意味に通じる形でハッキリと記されたのも、この『カタ・ウパニシャッド』が初めてといわれています。
『カタ・ウパニシャッド』においてヨーガとは、自ら感覚器官をしっかりと抑制すること、と定義されます。
感覚器官というのは、目・耳・鼻・舌・触覚をキャッチする五感の働きのこと。
これらは常に外部からの刺激に反応し、心を乱す原因を作り出します。
輪廻転生のサイクルから自由になること、つまり「解脱」を至上とするウパニシャッドでは、感覚器官を抑制して心の乱れを鎮めることが重視されました。
『カタ・ウパニシャッド』で馬車のたとえ話はどう記されている?
『カタ・ウパニシャッド』では、人が解脱に至る道のりを、暴れ馬のように不安定な感覚器官をしっかりと制御し、本当の自分を宿す肉体を馬車として、人生のゴールへ向かって往く旅路に例えました。
日本語に翻訳された『カタ・ウパニシャッド』で、馬車の話のくだりを確認しましょう。
第3章3
自己(アートマン)を車に乗るもの、身体をまさに車であると知れ!
理解力(ブッディ)を車の御者、思考(マナス)をまさに手綱であると知れ!第3章4
感覚器官は馬、感覚器官の対象は、それら(馬)における馬場(※道)である、と人々はいう。
自己、感覚器官および思考と結び付けられているものを、賢者たちは享楽するものと言う。第3章5
人が理解力を欠き、思考が常に弛(ゆる)められている時に、御者の悪い馬のように、彼の感覚器官は彼に従順ではない。第3章6
しかし、人が理解力を有し、その思考が常にぴんと張っている時に、御者の良い馬のように、彼の感覚器官は彼に従順である。第3章7
しかし、理解力を欠き、思考を欠き、常に不浄である人ー彼は、(最高天にある)あの場所に到達しない。そして彼は輪廻に陥る。第3章8
しかし、理解力を有し、思考を有し、常に清浄である人―彼は、(最高天にある)あの場所に到達する。そこから彼は更に生まれない。第3章9
『ウパニシャッド-翻訳および解説-』 湯田豊 大東出版社 (2000)
しかし、理解力を御者、思考を手綱としている人―彼は、旅路の終わり、ヴィシュヌの、あの最高の場所に到達する。
『カタ・ウパニシャッド』の馬車のたとえ話の要約
インドの思想になじみが少ない人には、少し難しかったかもしれません。
そこで、僭越ながら第3章3-9の要約を試みました。
人が解脱に至る道のりを、馬車でゆく旅路に例えよう。
御者が手綱をゆるめれば、馬は道中の様々な刺激に惑わされて暴れ、馬車も馬車に乗る者も、目的地にはたどり着けない。
しかし、御者が手綱をしっかりと握っていれば、馬は道中の様々な刺激にも惑わされず従順であり、馬車も馬車に乗る者も、目的地にたどり着く。
このように、優秀な御者のような知性と、ぴんと張った手綱のような状態の心をもってして、暴れ馬のような感覚器官を御し、道を進むことで、人は究極の目的地・解脱に辿り着く。
『カタ・ウパニシャッド』比喩の対応関係
- 馬:感覚器官。五感。
- 馬車:身体。肉体としての自分
- 御者:理解力(ブッティ)。知性。
- 手綱:思考(マナス)。心。
- 馬車に乗る者:自己(アートマン)。本当の自分
- 馬が往く道:感覚器官の対象。五感を働かせる原因となるもの。
『カタ・ウパニシャッド』では、感覚器官をしっかりとコントロールすることが、ヨーガでした。
馬車の話を引き合いに、ヨーガのことを、御者が巧みに手綱を操り、馬を御す行為に例えたわけです。
五感というのは、自分のものでありながら、別の生き物のように意思とは関係なく働いてしまう、それは想定内。
五感の働きに翻弄されることなく、制御していくことが肝心なのです。
そして、ヨーガは人生の最終目標・解脱のための手段(道具)であることが示されました。
馬と馬車は『バガヴァッド・ギーター』の教えの象徴
数頭の白い馬が引く馬車。
それに乗るのは鎧兜(よろいかぶと)姿のふたり。
そのうち一人は手綱を握る御者。
この馬と馬車、御者と戦士のモチーフは、『マハー・バーラタ』のワンシーンや、『バガヴァッド・ギーター』の表紙、ヒンドゥー教の寺院の絵画・レリーフ・モニュメントなどで見られます。
画像検索してみると、数多くの画像を見つけることができました。
インドではおなじみのモチーフなのですね。
さあ、ここからは『バガヴァッド・ギーター』を舞台に、馬車とヨガの関係について、見ていきましょう。
『バガヴァッド・ギーター』とは?
『バガヴァッド・ギーター』は、直訳すると「神の歌」。
インドの大叙事詩で、戦記物語『マハー・バーラタ』の一部を構成する700編からなる詩です。
紀元後1世紀頃の成立とされ、あらゆるインド思想が折衷・凝縮された、インド人の生き方指南書であり、ヒンドゥー教の聖典です。
『バガヴァッド・ギーター』のストーリー
ここで、『バガヴァッド・ギーター』のあらすじを紹介します。
主人公アルジュナは戦士階級の王族。
今まさに戦いが始まろうとする戦場で、数頭の白馬が引く大きな戦車上に、御者クリシュナと共にいます。
しかし、アルジュナは親族同士が殺し合うこの戦いの残酷さ、罪深さに戦意を喪失。
悲しみに暮れるアルジュナを、神でもある御者クリシュナが、義務(ダルマ)、行為(カルマ)、神への信愛(バクティ)への専念を説き、叱咤激励します。
やがてアルジュナの心の迷いは消え、戦いに身を投じる決意に至ります。
『バガヴァッド・ギーター』で、馬車はどう記されている?
じつは、『バガヴァッド・ギーター』の本文には、馬と馬車のたとえ話は登場しません。
感覚器官を制する行為については、「亀が頭や手足をすべて収めるように」という表現で例えています。
ですが、神である御者クリシュナが、馬車の主人アルジュナに教えを授けるのは、白馬をつないだ大きな戦車(馬車)の上。
馬と馬車は、『バガヴァッド・ギーター』の教えの舞台であり、内容・テーマを象徴するものです。
『バガヴァッド・ギーター』比喩の対応関係
(向井田みお先生による)
- 馬と馬車:五感と肉体。
- 御者:神・クリシュナ。「ブッディ(知性)」
- 手綱:揺れ動く「マナス(心)」
- 馬車に乗る主人:アルジュナ。主体「アートマン(真我)」
- 馬が走る道:感覚器官を惹きつける対象物。
- 馬車のゴール:「モークシャ(自由)」
※モークシャとは、輪廻から自由になることで、解脱と同じ意味合いです。
『バガヴァッド・ギーター』は、クリシュナの教え・知性でもって心の迷いを払い、結果に執着せず自分のなすべきことをなし、人生のゴール・解脱へ向かうべし、と説きます。
そしてヨーガとは、解脱への道のりであり、知性を確立し行為に専心すること、と定義しています。
『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教の聖典、バイブルです。
馬と馬車、アルジュナとクリシュナのモチーフは、ヒンドゥー教徒としての生き方、つまり、課せられた運命に耐え義務を全うする、定められた行為に専心する人生を象徴しているのです。
まとめ:馬車のたとえが、ヨガをする私たちに教えてくれること
ヨガ哲学における馬車の比喩表現について、インド思想の古典文献から確認しました。
今回は、テーマを馬車の例え話とヨガの関係に絞り、日本でヨガをする人に分かりやすい解説を心がけましたが、いかがでしたでしょうか。
ヨガとは手綱を巧みに操り馬を御す御者のように、自らが感覚器官をコントロールしていくことであり、人生という旅の最終目的、解脱のための手段であるということを、馬車のたとえは表しています。
あなたが乗る馬車の行き先はどこであれ、ヨガを手段としてまいりましょう。
自分の手綱は、出来る限り、自分で握ってまいりましょう。
手綱を注意深く握り続けることで、馬たちを巧みに御していくことができそうですね。
良い旅に、なりますように!
参考資料
- 『やさしく学ぶYOGA哲学 ウパニシャッド』 向井田みお アンダーザライト (2009)
- 『ヨーガの思想』 山下博司 講談社 (2009)
- 『ウパニシャッド-翻訳および解説-』 湯田豊 大東出版社 (2000)
- 『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦 岩波書店 (1992)
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